2011年04月28日

方言

1009hPa、小雨のち曇り、普通

大阪人の言葉のやり取りは「ぼけと突っ込み」でペアになる。
大阪人が二人よると、会話の間合いをはかって、あれっあんた突っ込みやのん?ふぅ〜ん、ほんならうちぼけ役ね、って感じでごく自然にあわせるというか。

埼玉で学生の頃、突っ込み言葉が口からぽんぽん出て、次から次によくまぁ減らず口がでるもんだ、と同級生から呆れられたことがあった。
大阪ではたいていのんびりしたぼけ役であっても、大阪弁にあまり慣れていない人たちに突っ込みを入れるのが、とても楽しかった。
大阪弁保護会の会長と名乗ってて、6年間どれだけ大阪弁でとおせるかなと勝手に測って遊んでいた。もっとも私のは、北摂版の大阪弁。
ただ病院実習で患者さんと接するときは、標準語にしていた。これは、落ち着かなかった。
それでも6年生ぐらいになると、相手によっては、多少は大阪弁アクセントの標準語になったりもした。
孤立して方言を使いとおすのも、時間がたつと崩れてくるなぁ、とおもったことがあった。

開放病棟の精神病院で口腔衛生予防のボランティアをしていた時、長年精神科歯科に取り組んでいる、ご先祖さんから浅草生まれで育ちの歯科医に話を聞いたことがあった。
歯切れと意気のいい江戸っ子弁には、ほんとほれぼれした。

京都弁は「突っ込みと突っ込み」で、これまたみごとというか、流麗というか、リズミカルな会話の流れがあるし。

北海道・東北や九州への旅行は数少ないし、まだいったことのないところがとても多いけれど、その土地の方言をまくしたてられると、よくわからなくっても、わぁ〜ぁいいなぁ、とほれぼれしてしまう。

その土地で無農薬の野菜に独特の香りや苦味があったりするように、方言にも、その土地ならではの人の営みや知恵がつまっているからだろう。
絶滅危惧種と同様、言語も随分、絶滅していっているみたいだし。
守ろうという意志を持たなければ、なかなか守れないものかもしれない。

posted by しち−らいおん at 20:05| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月21日

2011. 3.11以後

1019hPa、晴れ、ちょっと眠いけれど、普通

東日本大震災後、同時期、脱水症状が母と私にそれぞれ出た。
母は救急車で搬送された。
私は、今まで6回ほどなった中の、第4位ぐらいの脱水状態。今年2度目。

気持ちが沈みがちになる。それを断ち切りたくて、いろいろ試みた。
1ヵ月過ぎてみると、沈みがちとはいえ。
これからも、長期にわたって、何があるのか予断を許さない、と、どこか。
これが常態のありのまま、か。

東日本大震災の被災者の方々の話や声、現実の映像には、絶句、返す言葉が今もない。

寄付しかできない。
被災された方々は、出来るだけより安全な所へ避難して、再出発してほしい、それを支える手立ての確立を、とおもう。
posted by しち−らいおん at 19:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月16日

浜岡発電所は、東海地震の震源域の真上にある、と訂正

1011hPa、晴れ、ほぼ普通

4月2日のブログで「浜岡原発のように活断層上に原発があるなんて、危ないことこの上ない、と今もおもっているけれど。」と書きましたけれど。今朝、火山学者さんらしい早川由紀夫氏のTwitterで以下のようなことを知りました。

HayakawaYukio 早川由紀夫
いつも会見で出てくる保安院のひと「浜岡発電所は活断層の上にはありません。」 外国人向け記者会見4月14日1930 http://nettv.gov-online.go.jp/eng/prg/prg2092.html 33分のところ。04/16 08:58:05

HayakawaYukio 早川由紀夫
真実はこれだ。浜岡発電所は、東海地震の震源域の真上にある。保安院は知らないかもしれないが、地震学者はみんな知ってる。国民へのアナウンスも十分すぎるほどしてる。気象庁もしてると思う。繰り返す。知らないのは保安院だけだ。04/16 08:59:37

HayakawaYukio 早川由紀夫
震源域の真上とはどういう意味か。3月11日の地震は500キロ*200キロの震源域が動いた結果だ。福島第一原発はその外にあった。それでもこれだ。浜岡原発は震源域のほぼ中心に位置する。東海地震が起これば壊滅を免れない。04/16 09:12:42

HayakawaYukio 早川由紀夫
上海テレビSMGの質問「浜岡原発は活断層のところに位置していて」 西山「活断層の上に はない。東海地震の揺れに耐えられるように設計されている」(32分30秒)東海地震の震源域を活断層と呼ぶかどうかの定義の違いだ。(社会的・防災的に は)東海地震の震源域も活断層だというべきだ。04/16 09:29:57

東海地震の震源域の真上、ほぼ中心に位置する、東海地震が起これば壊滅を免れない。「震源域の真上、ほぼ中心」と、知らないのは、私もでした。すみませんでした。そして、訂正させていただきます。早川さんどうもご教示ありがとうございました。

posted by しち−らいおん at 12:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月10日

贈り物

1019hPa、晴れ、今年2度目の脱水症で、まだだるい

幼稚園の頃から毎週絵画教室に通わされていた。
行きは、多少緊張。帰りは、能天気なもので、画材道具持って、ふらふら寄り道ばかり。
帰りの大好きな寄り道は、おもちゃと模型の置いてあるお店だった。
お気に入りのお人形さんもあったけれど、鉄道模型やブリキのミニカーとか飛行機とかも売ってて。
教室が終わればそこに行き、見飽きるまで見ていた。
中学高校生の大きなおにいさんやおねえさんが多く、ちょっと緊張する絵画教室に通えたのも、終われば道草してゆっくり観て遊べたから。
あと、大好きだったところは釣り道具屋さん。様々な「浮き」の色形と道具類は楽しかった。

絵画教室では、おにいさん、おねえさんを見習って、教室の素材のどれかを、気ままに選んで描き、先生に見せると、必ず注意を一つ、それから一つ褒められた。
家に帰って、両親に自分の絵を見せつつ説明し、先生にいわれたことの報告をして、褒められた(当時両親の子育て方針は、褒めて育てる、だったと、数十年たってから聞かされ、えっ、子育て方針ってあったのぉ?と、ひっくり返りそうになった)。
で、すっかり、私は絵描きさんだと思い込んでいた。

小学3年頃、私は絵描きさんではないんだという当たり前のことに気がついた。
描きたいと見ているものの形は正確には描けないし、同じ色の絵の具がなく、色が出せないと、半年ほど悩んだ。
いろいろやって、挫折し、絵画教室に通うのを勝手に止めてしまった。

高校の頃は、美術部。でも美大に進学するわけではなかったし、美術鑑賞が好きだったからに過ぎない。
大阪京都の画廊はよく見て周り、気に入った絵に会うと、毎日観にいって、画廊の人からお茶を出してもらっていた。
10代の頃、両親にお金を貸して、と頼んだことがあった。
何に使うのかと聞かれて、大好きな絵を買いたい、といい、貸してもらえなかった。
10年以上たって、同じ画家さんの展覧会に再会した。再会したのは、バブルでもないずっと前だったけれど。初めて観た時から、1号あたり40倍以上値上がりしていた。私のほしい絵のクラスは、それなりの土地付き家1軒分以上の値段になっていて、諦めた。

今も、絵とか彫刻とか観るのは大好き、音楽も文学もそれなり大好きだけれど。
たまにとてもほしいとかきたてられるのは、たいてい手が届かないし、それに年のせいか美術品への所有欲はさほどない。やせ我慢か、な、も。
最近では、手のひらにすっぽり収まる縄文前期紀元前5000年か6000年頃のグエノエル・ライオネス像がほしくてたまらなかった。落札額は、とても高かった。でも、ネット上のいろいろな方向からの写真をコピーして持っている。
当初うなされるほど、ほしかった気持ちも、3年4年たつと落ち着いてくるし。今でも写真を観ては、やっぱりいいなぁ、と時を忘れる。ネットはありがたい。

1点ものの作品は預かり物で、それなりに責任が伴うし、自分しかその作品を楽しめない、というのには、ちょっと辛いものがある、と、おもう。
1点ものを持っていないわけでもないから。
その点レプリカとか、作品複製の写真とかは、観て楽しむのも、気楽でいい。
大好きなものが、この世の中にはたくさんあるけれど、こういうのは贈り物だとおもう。

posted by しち−らいおん at 00:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月02日

怖がりの形

1014hPa、晴れ、普通

怖がりというか。ま。

大阪生まれで育ち。埼玉で大学生時代を過ごしたけれど、地震の多さに、閉口。卒業して、関西に戻ったのは、地震が怖かった、というのもあった、大きな声ではいえなかったけれど。その頃の大阪も今と同じく、地震は一年に一回あるかないかだったし、大きさも関東地方のよくある地震とは比較にならないくらい小さかった。阪神大震災前の関西人は、地震については、たいていのんびり構えていたようにおもう。

仕事場兼自宅をつくろうとした時、有馬高槻の活断層のことをすぐ思い浮かべた。中学生の頃、植物採集も趣味だった。それで、地元には大きな活断層があり、さらに本州からと中国地方からの地層が重なって、両方の植物相が見られ豊かであることを、植物に教えられたというか。プレートテクトニクス理論が出てきたのは、埼玉で大学生をしていた頃だけれど。地元には大学の地震研究所まで、ご丁寧にある。というわけで地震対策が第一、それから、福井の原子力発電所が事故ったらの場合、というので、分厚い鉄筋コンクリート壁と柱にした。仕事柄、鉛でシールドされた部屋もあるし。それと、「三匹の子豚」の童話の家が念頭にあった。建った直後、これを壊すのは大変だなぁ、とおもい、この私の家、壊すのにいくら位かかりますか、と質問して、呆れられた。

浜岡原発のように活断層上に原発があるなんて、危ないことこの上ない、と今もおもっているけれど。チェルノブイリの事故は、自宅が建って数年してからだった。

地質検査のボーリングを深くし、少し離れた避難所の中学校と小さな我が家の基礎工事は硬い岩盤までと同じレベル。構造としての田の字型というのは、昔からの日本家屋の知恵を拝借、耐震性に優れているから、そうしてほしいと注文した。ただ基礎工事に予定外のお金がかかり、内装設備費が不足。構造と水周りのことには注文をつけたけれど、実際のレイアウトとかの注文は割りとアバウトだった。その頃は、いつも仕事で忙しかったし、もっと、設計図面の段階で遊んで楽しみたかったけれど、出来なかったのは、ちょっと残念。ただ、大げさな家を建てたと周囲の人たちや患者さんから随分からかわれ、よく笑われた。ま、冷笑も。それに10年ぐらいは、自分の家が、なんとなく恥ずかしかった。若気の至りで、私の恐怖がそのまま形になっているとおもっていたから。私の家に来るたびに父は、打ちっぱなしの壁をパンとたたき、「お金がないから、今はこうなんだね。」というので、「うん。」と答えていた。

阪神大震災時、実家にいたので、残念ながら、自分の家で地震を体感することはできなかった。地震後、自分の家に帰ってくると、細長く不安定なガラスの花瓶も棚から落ちず、ずぼらに高く積み重なった書籍もそのままで、家の中は、いつもと同じのんびりさだった。同じく鉄筋コンクリート作りの実家では、安定した形のガラス花瓶がサイドボードから落ちて割れたり、新聞の積み重ねが崩れた。食器は割れなかったが。突き上げるような縦揺れのあまりのすさまじさに、早朝の熟睡から起きてしまった。ご近所の木造家屋では、ガラス食器が皆だめになるとか、泥棒に入られたように、足の踏み場もない、ということだった。活断層上の家は特にひどかった。家や屋根が崩壊したりして、各屋根にブルーシートが被っていて、電車に乗っていた時、活断層の走行がよくわかった。

阪神大震災のあとは、患者さんからも、私の家の大げさぶりは笑われなくなった。屋根に太陽光発電のパネルと、雨水利用の浄化タンクがいるなぁ、と震災後気づかされたけれど。

阪神大震災のスケールよりもずっと大きな東日本大震災。地震に津波に原発破損。若い人たちは、いざという時のために外国でも生活し生き延びるすべを身につけたほうがいいのでは、と、怖がりとしてはおもう。
posted by しち−らいおん at 14:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする